北京編 Part 5     ライター千遥


     

              盧溝橋(現在の永定河にかかる橋)とその周辺の景観
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  7月8日の日曜日、朝食を済ませたあと団地を出て最寄りの地下鉄駅「四惠駅」へと向う。団地の外へ出た途端に、街中のインフラも人々の生活も、アンバランスであることを身近に味わうことになる。建物も道路も、行き交う人々の表情までもが別世界のように感じられる。

 道路も極端に狭くまがりくねっている。その狭い道路に、寄り添うように多くの車が停めてある。巨大な荷物を積んだ人力三輪車などにも出会う。そんな道を少しばかり歩いて右に曲がる。すると線路にぶち当たる。道はここで終わりだ。それで、その線路をまたいでわたる。滅多に列車も来ないような錆びついた鉄路である。この道なき線路を超えて、暫し歩くと地下鉄四惠駅となる。地上3階まで階段を登って、やっとこぎれいな駅に着く。

 盧溝橋は北京中心街の南西約15キロの地点にある。地下鉄1号線の終着駅からさらに先に行かねばならない。タクシーでは遠すぎる。そんなことで地下鉄終着駅の一つ手前の八角橋駅まで行き、それからタクシーに乗ることとした。この辺まで来ると、すっかり田舎の景観となり大きな建物はもちろん、商店街らしきものは何もない。

  盧溝橋は、盧溝河(現在は永定河)に架かる石造りのアーチ橋である。1192年に完成したが、その後度々修復されているそうだ。全長は266.5メートル、11個のアーチからなる。アーチひとつは11メートルほどの大きさである。

 橋の両側の欄干には獅子の彫刻があり、それぞれが異なる表情や姿形をしている。総数は501個である。
 かつてここを訪れたマルコポーロが、その著書・東方見聞録の4章の中で「世界中どこを探しても匹敵するものはないほどの見事さ」と記録したため、英語ではマルコポーロブリッジと称される。

 また、橋のたもとには乾隆帝の筆と伝えられる「盧溝暁月」の石碑がある。皇帝がここで月を見たという事から、現在も中秋の名月の夜には月見に多くの市民が訪れると言われる(上記画像の一番左)。北京市民にとっては、今でも憩いの場所である。


 今から70年前、この地において大事変が起きた。1937年7月7日、本格的な日中戦争突入への引き金となったのがこの盧溝橋であることは、よく知られている。この事変勃発のいきさつには、いろいろな説があり今や真偽のほどは分からない。
 当時、この付近に駐屯する日本の支那駐屯軍が中国側に通告なしに夜間演習を実施していた。その最中の午後10時40分ごろ、数発の射撃音があり、点呼してみたら日本の2等兵1人が足りなかったという話もある。 (実のところ足りなかったのは、兵士1名が下痢で演習直後に草むらにかけ込んだためであり、直後に無事帰還していたという話でもある)

 この事件は、中国での戦線拡大を図った日本軍の謀略との説も有力である。事件当時、陸軍参謀本部第一部長で、日本が1931年謀略的に仕組んだ鉄道爆破事件(柳条湖事件= 9.18事変)をきっかけに軍事行動を引き起こした「満州事変」の中心人物の一人石原莞爾が、「盧溝橋豊台に兵を置くことになりましたが、之が遂に本事変(「支那事変」)の直接動機になったと思います」(「石原莞爾中将回想応答録」参謀本部作成)と記していることからも、日本軍が事件を誘発した一つの証明にもなり得る。

 また、現地の日本兵の間では、「七夕の日は何かがおこる」という噂が飛んでいた(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』東京大学出版会) らしい。いずれにしても、自国の首都近辺に外国の部隊が駐屯し夜間演習などをやられたら、いつ戦争になってもおかしくはあるまい。


       

  ツアー客は城内には入らず         盧溝橋の説明板    1000円の価値がある昔の銀貨(15円)
                               (日本語)           〜いずれも拡大表示されます〜


  通常、日本の旅行会社によるツアーでは盧溝橋を訪れることは少ないが、ときには盧溝橋見学も含まれることがある。しかしその場合も、城内に入ることはなく、周辺をざっと見て引き上げることが多い。わたしが本日の目的とした盧溝橋記念館、正式には「中国人民抗日戦争記念館」は、一般的には日本人観光客には好まれないものであろう。また連れて行くガイドにとっても、気分がよいとは思われない。その展示品は、旧日本軍の残虐な行為を余すことなく明らかにしているからだ。

 盧溝橋城内は一つの町を形成しているようであり、古くからの建物が残っている。表通りこそまずまずだが、路地などは一見して貧困層の住居と分かる低層のレンガ作りの家が連なっている。そんなところで一際目立つのは、やはり抗日記念館だ。数年前に改装されたようで真新しい建物である。日曜日であるためか、家族連れや小中学生などの団体客が多数バスで訪れていた。

 前日は、まさに事変勃発70周年のその日でもあり、盛大な式典が催されたようである。しかし、来年には北京オリンピックを控えていることや、反日運動の高まりを懸念した胡錦濤指導部による対日関係発展の方針を受けて、展示物は反日色を弱めた内容となった。と、言われている。
 だが、民間団体などが旧日本軍の残虐行為とされる写真を数多く展示し、「反日」感情を高める効果を果たしていることは間違いない。中国国内ではこの盧溝橋記念館に拘わらず、全国各地で対日戦争記念館の改築が進められている。南京虐殺記念館もしかり。また中国の軍事力を誇示する「軍事記念館」も、大改装を行っていたことを翌日には分かった。

 そんな中で、わざわざ見学にくる日本人をどう見るのか。多少の興味があったが実際は見向きもされず、一般市民から「今の日本人」に対しての過剰な反日意識を感じることはなかった。館内の写真撮影は自由であった。しかし、現地中国人が館内の展示品などの写真を撮るのは殆ど見かけることはなかった。彼らは校外学習の一環として、日頃教えられていることを、改めて確認する程度だったのかも知れない。



            

                     抗日戦争記念館の外観と見学者の光景
                                         


  記念館の展示写真などは、抗日戦争を戦った毛沢東や周恩来などの写真や日本軍の進軍から敗戦に至るまで、その侵略の様子や残虐な写真で溢れている。小泉元首相も一度だけ連れてこられたらしいが、一部の自民党保守政治家や右よりの日本人の方々には、到底見るに耐えられぬものも多いであろう。

 しかしながら、自国の国土を蹂躙され、多くの罪の無い市民が殺略された側からみれば、こうした展示も やむを得ないところでもあろう。70周年のテーマも「歴史を忘れず、平和を愛し、中日両 国民が未来を切り開くのが重要だ」と強調している。

 
=七月七日を忘れず、平和を愛す=がメインテーマであり、副題として「←----記念中国人民抗日戦争全面爆発70周年史料展」となっている。訪れる日本人には苦い思い出であるが、過去を忘れがちな我々には、尊い教訓とせねばなるまいか。

 下記の写真は、撮影した展示品より数点を抜粋した。あまりにも悲惨な写真は、あえて割愛した。

      

       

       

      最下部中央の写真は、当時の東京日日新聞の記事である  〜これのみ拡大表示〜


 
  記念館をでたあとは食事だ。なにしろ既に2時をまわっている。お腹が減ってしょうがない。しかし、この街中では殆ど料理店らしき店などは見当たらない。Mさんがご存知の店が裏どおりにあるとのことで探したが、なかなか見つけることが出来ないでいた。そんなとき、ちょうど通りかかった二人連れのご夫人に聞いたら、すぐに分かった。二人での食事なら適当な小さな店である。何しろ暑いから、まずはビールを注文した。
 
 でてきたメニュー(菜単)をみると、燕京ビールが2元と書いてある。おかしいなぁ、と二人とも首をかしげた。普通なら何処でも10元はするからだ。運んできたのは、田舎から出てきたばかりという風情の若い女の子である。ビールは間違いも無く燕京ビールであった。お姉さんはビール瓶のふたの開け方も分からない様子であった。先輩の男性店員が付き添って開けてくれた。お姉さんは只今修行中の模様である。
 帰りぎわに清算したら、やっぱりビールは2元(30円)だった。ビールの偽物があるものか。二人で26元(390円)の食事代で終わった。不思議なこともある中国社会を、またまた痛感した次第である。
                                          (C・W)


  
            

                     

         昭和天皇の訪中写真と、村山元首相による永久平和への揮毫