真夏の中国 ひとり旅  北京編 Part 1   ライター 千遥                                                             


  今年は北京郊外の盧溝橋事変から70年。言い換えれば本格的な日中全面戦争に突入してから、70年目を迎えた年である。そして日中国交正常化からは、ちょうど半分の35周年となる。日中両国からみれば記念すべき特別な年といえるだろう。

 当時の田中角栄首相の英断により、長く閉ざされていた国家間の断絶状況はそのとき、大きく開かれたのである。晩年はロッキード事件で不遇なときを送られた角栄首相も、近くて最も遠い国との関係を大きな決断のもとに切り開き、今日の両国の親善と発展に寄与したことは間違いない。

  かく言うわたしも、本年8月に生誕70年を迎えた。立派な業績を積み重ねて生きてこられた方も、モタモタと生きてきても、人間は同じように年はとる。情けないことに、わたしは後者に属するものと自認せざるを得ない。何せ、なにごとにも実行力と決断力が伴わない。これではどうにも仕方ない。

 現在わたしには中国国内に、心の内をさらけ出せる先輩や友人が3人ほど長期滞在しておられる。そのうち2人の方から、「早く中国へ来い」と数年の間、言われ続けてきた。それが今年やっと実現した。と言っても、わたしが別に中国を訪問していないわけではないのだが。
 会社を62歳で辞めてから、その翌年には「千葉歩こう会」の主催による「ニーハオ・ウオーキング」に参加し、北京郊外から20キロの八達嶺まで歩いた。そして、その名も高い「万里の長城」にも登り雄大な景観も眺めさせてもらった。


               

                  右端は ニーハオ・ウオーキング  クリックで拡大します   わたしは何処に ?


 これが手始めで、その翌年には上海水産大学での2週間にわたる「短期語学留学」に出かけた。参加者の中に50代とおぼしきオッサンが一人いたが、20代前半の若者が殆どで60歳を過ぎた参加者は、わたし一人だけだった。この旅では同行した30代の仲間とともに、上海市内は無論のこと蘇州や杭州などを訪ねあるき、現地の中国人との愉快な時間を持つことができた。

 中国旅行は、人によっては病みつきとなるらしい。わたしは、確実にその部類に入るようだ。翌年は上海に転勤した知人のKさんに誘われ、またノコノコと一人で出かけて、上海周辺の無錫から南京、紹興などをブラブラと周遊した。日本人には評判の悪い南京大虐殺記念館も、しっかりと見学させてもらった。この記念館を見学した日本の政治家は、当時の土井たか子社会党党首だけであったように記憶している。
 その後数年はちょっとご無沙汰したが、新聞広告の格安ツアーにつられて1年間に大連・旅順ツアーと北京ツアーに参加した。ツアーは面倒が無いから、これもやりだすと切りがない。立派なホテルと豪華な食事つき。手間は一切かからないから、これまた病みつきになる。

 そんな自分にあきれて、暫くは静かにしていた。そんなときに、北京在住のMさんと青島在住のAさんからほぼ同時に、誘いのメールが届いた。Mさんは定年が3年延長となり、そろそろ帰国の準備にかかる頃、別の会社から声がかかり北京の駐在員代表となったのである。前の会社は日本でも著名な時計会社であった。
 専門は所謂一般の時計製造とは異なり、陸上・海上などにおける競技の計測機器である。技術者である。100分の1秒を争う競技のタイムを計測するのだ。そんなことで、各地におけるオリンピックには殆ど参加していたという。一連のオリンピックも終わり、Mさんは一時日本にいてわたしの担当する中国語初級クラスに所属していた。しかし語学力の達者なMさんは、すぐに中級クラスに移ると、いつの間にやら上海駐在員として立派な事務所を構えていたものである。

 一方のAさんは、わたしと同じ千葉県の田舎都市に住まいを持つ方である。わたしよりも5歳ほど先輩であるが、いつまでも若々しい。奥さんも独り身で店を構え、お互いに逞しい生活を送っておられる。
 Aさんは中国青島(以降チンタオ)で生まれ、13、14歳頃に日本に帰国した。その後通信会社に勤務し、定年を前に天津にわたり天津師範大学の日本語教師を勤め、3年ほど前に退職した。大学在職中は天津日本人教師会の会長もされておられた。そして今ふたたび生まれ故郷のチンタオで、大学生や若いОLに本物の日本語を教えている。言い換えると「日本語らしい日本語」を懇切丁寧に教えている。


         

                 Mさんの住むマンションと外の景観          すべて拡大表示します


 Mさんの住まいは、地下鉄北京駅から4つほど離れた高級団地の中にある。団地内は高層マンションが数十棟も立ち並び、付近の建物とは一種異なった高級感が漂っている。彼は30階建て程度の12階に住む。朝早く窓から見渡すと中庭も見事に整備され美しい。少し遠くに目を移すと紫禁城(故宮)を囲む4つ目の環状線が見える。早朝のせいか、まだ車は少ない。この環状線の内側に住む人は、かなり裕福な階層の人たちと聞いた。団地の外に出ると多くの人たちと出会うが、やはり服装から態度など多くの点で階層の違いを感じたから、それはそれで、事実なんだろうと思う。

 この団地に入るには3か所の入り口を通るしかない。しかし、そこにはいつも数人の警備員がおり、出入りする人すべてをチェックしている。関係のない人はまず入れない仕組みだ。入居者は、それぞれにICカードを持っている。それを警備員に示すか対象ICに触れることで出入りができる。わたしはMさんに一つ借りたので、自由に往来ができたというわけである。

 13億人もの人たちが暮らす巨大な中国社会。
その中で、益々拡大する中国の富裕層と貧困層の格差社会を感じさせられた第一歩であった。(つづく)


             

                                                           次回をお楽しみに