**** 5年ぶりの北京 ****  
 


             
 「光陰矢の如し」とは、まさに実に的を射た言葉である。過ぎ去った日々は早い。オッチャンが始めて北京の土地を踏んでから、はやくも5年を経過してしまった。
  中国とは、国交回復以前から「広州交易会」などに毎年招待される日中友好商社に在籍しながら、無関係な国内販売部門にいたオッチャンには会社在籍中に中国を訪問する機会はなかった。わずかに接点があるとすれば、中国人の訪問客があったときに、専門的な立場からアドバイスするために上層部から呼ばれ、来日した中国人と会ったことである。
  当時、まだ西側の世界とは縁の薄かった中国人たちは、服装一つ見てもスーッにネクタイが何となく似合わない奇妙なスタイルに見えたものである。日頃は人民服である者が、外国を訪れるために慣れないものを着せられたためか、どこかチグハグなのが一見して分かった。
  通訳は中国室に所属する女性が行っていた。その頃は、男性で流暢に中国語を話す社員はいなかったから、我々の説明がどの程度先方に伝わったか、はなはだ疑問に感じたものである。それを証明するごとく、いくらアドバイスしても彼らが試作して持ち込む製品の品質はなかなか改善されず、もどかしさとむなしさを味わっていた。

  もう一つの接点は、バブルの時代以降あたりから頻繁にかよったスナックやバーでの中国人女子留学生とのお遊びの会話である。今と同じように多くの留学生が昼は学校に行き、夜は遅くまで働いていた。ちょうどその頃NHKのテレビ中国語会話を学び始めたオッチャンは、酔うほどに言葉が流暢になる。 「○○さ〜ん、中国語じょうずネ〜」などとおだてられて、せっせと飲みにいっていたものである。

  そんな僅かな接点しかなかったオッチャンにも中国を訪れる機会がやってきた。退職前から「日本歩け歩け協会(現 : 日本ウォーキング協会)」に所属していたオッチャンは、送られてくる機関紙を見ては各地のウォーキング大会に参加していた。ちょっと遠いところでの催しには宿泊代節減のために、地元体育館内いっぱいに布団を敷き詰め、ざこ寝することも多かった。災害とは違うから恐怖感は全くないが、その状況は地震どきの避難の様子と似たようなものである。
 
      
++ 不到長城非好漢 ++

  最初の中国訪問は、「千葉歩こう会」が企画した「ニーハオ 万里の長城」の催しで北京を訪れることになった。北京市郊外から、長城の一つの入り口である八達嶺まで、18キロばかりを登っていこうという計画である。 2000年3月16日午前11時、中高年男女48人の一行は予定どおり北京空港に到着し、翌日は早々に朝食のバイキングで腹ごしらえをすると全員バスに乗り、長城方面へと向かった。

  早朝の北京市内は多くの人々が通勤でごったがえしている。何ともいえぬ活気がある。自転車の洪水だ。バスもタクシーも、オートバイも爆音を響かせ同じ車線を走っている。そのわずかな隙間を歩行者が横断する。誰も交通事故など気にしている風情はない。
  そんな雑踏も市外に出ると車もグーンと少なくなる。北京付近の、もう一つの長城関所である居庸関のずっと手前でバスを降り、長城沿いに作られた舗道を登り始めた。行き交う車も人も殆どない。左手に聳え立つ城壁を、右手には延々と連なる山並みを見ながら、オッチャンもオバチャンも元気いっぱいだ。みな歩くのは慣れているから、この程度の歩行は全く気にならない。

  ポカポカ陽気で、真冬並みの重装備であった我々には誤算だった。中国人女性たちは皆、半そでのシャツだったのである。オッチャンはといえば、同行した中国人大学生とのお喋りに夢中で、気がつくといつも一番後ろを歩いていた。
  やがて全員18キロを歩きとおし、八達嶺から長城へと登った。城壁は幅6メートルくらいで、傾斜のきついところは階段になっている。階段は30度から45度もあるから結構きつい。小高い見張り台が要所要所にあるが、さすがに一気に登りきれるものではない。若い中国人女性は、「しっかり手すりに掴まってネ」と絶えず気遣ってくれる。そして決して傍を離れない。

  しかしオッチャンは、彼女たちの手を借りることもなく急勾配の男坂と、少し緩やかな女坂を踏破し、爽やかな快感を味わうことができた。オッチャンがもっと弱々しければ、彼女たちの暖かい手に触れることができたのに、それが心残りであった.......... ?
  長城から見上げ見下ろす、その素晴らしい景観は言うまでもないが、総延長6700キロといわれる城壁の築城に流されたであろう多くの人たちの血と汗に思いをはせると、複雑な心境にもなり、平和の尊さをかみしめたものである。
  日本留学に来ると言っておられたガイドの牛(niu)さんは、来日早々の5月にオッチャンの狭い家を訪ねてきた。朱(zhu)さんや趙(zhao)さんからは、日本人顔負けの素晴らしい文章の手紙をいただいた。
  「また北京に来てね。そして今度は中国語でお話しましょう」「先生の強い心に感動しました。毛澤東の言葉に"長城にいたらずんば好漢にあらず"とありますが、先生たちは、もっともっと好漢になったのではないでしょうか」との嬉しい内容であった。発展を続ける中国の若い人たちの勉強に向けるエネルギーは凄い。私も「定年だから」なんて、言っておれなくなった。唯一の悔いは、彼女たちのあまりにも達者な日本語に、習いたての中国語を存分に試せなかったことである。
  怠慢なオッチャンに、新たな意欲を与えてくれた彼女たちに対して感謝の気持ちでいっぱいである。

上記「不到長城非好漢」の項は、2000年8月15日付「日中友好新聞」に掲載した記事から抜粋した。それから5年余、1月の大連・旅順に引き続き気まぐれの北京ツアーに参加することになった。


  5年ぶりの北京

  2005年の11月25日から29日まで、オッチャンは今年2度目の中国に出かけた。行き先は北京である。本音は暖かい春に2週間程度の一人旅がしたかったが、4月の反日騒ぎで出かけるタイミングを失い、とうとう冬場になってしまったというわけである。4泊5日のツアーである。航空機の料金から宿泊費や食事、バス代など全てを含んでの一人当たり39,800円だ。安いツアーをよく眺めると、午後の出発で帰りも午前というのがある。2泊3日とうたっていても、実質は1日のみの観光というものも多い。
  このたびは午前中の出発であり、帰りの便も午後だから目いっぱいの観光ということになる。ガイドは予め作成された日程消化に懸命であった。途中で遅くなり故宮や天安門を見下ろす景山公園は、外灯もない中小高い山を登ることもあった。また土産店を優先し、観光地があとになるケースもあった。
  土産店に寄れなければ、彼女たちの収入に影響すること大と考え、大目でみていた。いずれにしても単純に考えると、飛行機代も出ないような費用でツアーが成立する仕組みは興味のあるところだ。

 
  中国東方航空機に乗り込むと、殆どが日本人であった。しかしアナウンスは中国語、英語に続いて少し間をおいてからの日本語となる。もちろん日本人乗務員は1人もいなかった。日本人は高くつくからやとわないのかなぁ。いずれにしても、この冬場に寒い北京へ出かける物好きが多いことに驚いた。もちろん自分もその1人ではあるが.....。


       

       混雑する成田空港        富士山は いつも美しい         到着した北京空港

                              富士山は拡大表示


  ツアー旅行ゆえに1人で自由に歩き回るわけにはゆかない。従って、何がどのように変わったかを、自信をもって語れるほどの奥の深さはない。まして前回訪問は5年前であるし、始めてのことだから観察力もなかったと思う。それを補完してくれたのがガイドの李さんである。運転手も李さんだ。中国の習慣として、先輩を敬う意味で老という言葉をつける。これは決して「老人」という意味ではない。それで運転手は老李であり、ガイドのお姉さんは小李である。

  一般的に言われていることは、北京は1年行かないとビックリするほど変わっているということである。1年また1年と変化を続けている。それも大きな変化を遂げている、と言ってよいだろう。まして2008年は国の面子をかけたオリンピックが行われる。海外から訪れる多くの外国人に恥ずかしいところは見せたくないだろう。何しろ中国人は面子を大事にすることでは、世界でも有数の民族である。従って、日本との過去の問題も、お互いの面子がぶつかり合い未解決のままである。
  それはそうとして、経済の発展は物凄い勢いだ。上海の高層ビル群にも驚くが北京は今猛烈なビルラッシュである。あちこちで古い町並みが壊され高層ビルへと変貌を遂げていく。北京は政治、上海は商売。ということで、双方が張り合っているのは有名な話である。北京人と上海人はなかなか相容れないという話である。おそらく東京人と大阪人以上に対抗心が強い。

  北京では、日本円で1億円を超えるマンションなどがドンドン売れる。外から見える変化では、まずこの建物の増加、そして新市街地の拡大であろうか。しかし、反面追い出された貧民層の反発は、いずれ起きる大きな可能性も秘めている。
  次は車の多さであろう。100万円以上もする車が売れている。オッチャンの記憶でいけば、5年前はタクシーが圧倒的に多かった。今や自家用車の時代である。市街地に入ると、どこも猛烈な渋滞でやっとこ前進する有様だ。数十年前、中国政府要人が日本を訪れた際に首都高速道路の渋滞ぶりをみて、「これが高速道路か」と笑った話がある。それが今、北京に訪れているわけだ。益々増える車と渋滞をどう裁くかは、オリンピックまでの大きな課題と思われる。

  中国における交通マナーの悪さは有名である。ちょっとの空間があればドンドン割り込んでくる。バスもタクシーも、一般車も、そして自転車も人も皆同じ意識だから、勇敢な者が勝つ。が、場合によっては名誉の死を遂げることにもなる。数日間で事故も3件ほど目撃した。大都市では法制度を整備し、スピードの摘発や信号を忠実に守るよう指導し罰金制度も設けたと聞くが、市民すべてに浸透するには程遠い感がある。長い間の習慣がそう簡単に変わりそうには見えない。
  それでも部分的には自転車専用道路を設けたり、自転車向けの信号なども見かけた。これなどは今回が初めてである。また、トロリーバスの車線は一般者の乗り入れ禁止だから、このトロリーバスが猛烈なスピードで走っていく。抜け目のない車は、その後をピッタリついて走る。パトカーや消防車のあとに続く日本の車と同様である。いろいろあるが、一歩一歩良い方向に向かっているとの印象は受けた。


        

             宿泊した北京新世紀日航飯店など       クリックで拡大表示


         

               超高級ホテル前の商店            クリックで拡大表示


  上記の画像は、北京市街地に展開するごくありふれた超高層ビルと、ホテルの前に残る庶民の生活の様子である。今、これらの小さな商店は少しずつ姿を消しつつある。近代的なビルと前近代的な町並みは依然として混在し、異様な光景を見せている。多くの市民はこの様子をどう見ているのか、聞いていないからオッチャンには分からない。だが、立派な服装に身を包んだ女性たちが気軽に立ち寄れる小さな店や、路上の売り子がいなくなったら寂しさがつのる感じがする。

  大学を出て官僚や大企業に勤務できる人たちは、全体からみればほんの一握りのエリートに過ぎない。これらの人たちは高級住宅に住み、車を乗り回す。ケ小平が改革開放路線を押し進めた結果は、大都市や沿岸の都市住民に思わぬ富裕層を生み出した。一方で都市内部での所得格差を生み出し、都市と農村の貧富の差は拡大する一方である。
  全ての人民は平等だ、という思想が共産主義の原点の筈だが、それらがないがしろにされているのが現在の中国である。行過ぎた拡大路線は必ず破綻する。そのようなことが生じないことをオッチャンは祈念している。

  おっと、忘れるところであった。万里の長城は冬にも拘わらず日本人や欧米人、そして中国人で長蛇の列であった。またその観光客にまとわりつく物売りも健在であったことを最後に記しておきたい。(C.W)


            

                            万里の長城 (八達嶺)    クリックで拡大表示