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この人  田中 達夫さん


  この12月初旬、ある忘年会の席上で偶然にも当鎌ケ谷市にも「ご当地ソング」が出来たことを知った。その歌は「鎌ケ谷ふたりの恋の街」という。お一人で作詞・作曲から歌唱までなされて出来たのが、この歌だ。この超人的なお方は「田中 重夫さん」である。軽快なリズムで田中さんは歌われる。

           
♪逢えてよかったこの街に....
                愛する鎌ケ谷
                   鎌ケ谷の街♪

 まさに、鎌ケ谷イメージソングの誕生である。とても歌いやすい。すぐに覚えてしまいそうだ。

"鎌ケ谷ふたりの恋の街"をお楽しみ下さい!
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田中さんは、元々お隣りの市川市の出身。本年65歳になる。鎌ケ谷に移り住んでから46年を超える。お住いは市内道野辺中央(旧精工舎どおり)で、ここでズーッと紳士靴の製造・販売を行ってきた。いわば靴の製造職人である。婦人ものには手をつけなかったと言われる。やはり両方を手がけるのは難しいとのことで、婦人靴はもっぱら浅草の問屋から仕入れていたとのお話である。

 靴の製造のかたわら、田中さんは趣味の音楽(歌謡曲=演歌)に熱中した。のど自慢大会などは、全国くまなく出演していたとも言われる。そのうち靴の業界も大手の店に押されて、商売も成り立たなくなってきた。今、東部鎌ケ谷駅西口に見られるシャッター街のように、自らも降ろす羽目にってしまったわけだ。

 ここで、田中さんは得意の歌唱力を活かして、カラオケ教室を始めることになる。この教室は24年も続いている。その名は「タナ。カラオケ歌謡研究会」という。現在、生徒さんは60数名を超える。多いときは100名はいて、テンテコ舞いの忙しさだった。今の生徒さんは10〜20年の付き合いで、とても長い。殆どは女性で男性は少ない。その理由はと聞けば、サラリーマンで特にエリートだった方などは「教わるのが苦手」とのことだ。会社を終えてから「誇り高き昔の栄華」を背負っていては、何も出来ぬと同感の至りである。

 カラオケ教室を運営しながらも、田中さんは歌の道に精進する。作曲は越純平に3年半、作詞は鳥井実に5年半ほど師事し遂に平成元年4月、念願のプロ歌手としてデビューした。このとき田中さんは、既に40台の半ばにかかっていた。これは、カラオケ教室開設5周年を記念したものでもあった。

      



 A面は「男の約束(ふりがな=えんか)」、B面は「家族」である。作詞は先生でもある鳥井実、作曲は宮下健治でキングレコードから全国発売した。いま聴くと、なかなか良い歌だが、残念ながらヒットするには至らなかったようである。これが北島三郎でも歌ったら、爆発的なヒットを飛ばしたかも知れない。大衆向けの演歌は、やはり歌い手の知名度が大きくものをいう。この知名度不足が致命的で、立派な歌も売り上げに繋がらなかった。というしかないのだろう。

 このあと、田中さんがプロとして歌うことはなかった。しかし作詞から作曲、そして自ら歌うことへの夢は捨てがたく、とうとう地元・鎌ケ谷のご当地ソングを作りあげてしまった。それが冒頭の「鎌ケ谷ふたりの恋の街」である。平成19年9月にレコーディングし、12月には鎌ケ谷の象徴でもある「ききょう」や「梨」の花、そして発展する新鎌ケ谷駅の時計台をちりばめたジャケットで装丁し、CDとして発表した。

 もちろん、田中さんには大々的に全国発売する気持ちなどはない。この歌が鎌ケ谷在住市民の皆さんに愛され、歌われることだけが願いとのことであった。





             
素顔の田中重夫さん........まなびぃプラザ にて      



  
 
 
 田中さんは、日本音楽著作権協会会員でもあり、全国詩、曲音楽連盟委員などの肩書きもあるが、素顔はごくごく普通のおじさんである。「歌は人生のささえ」、をモットーとして楽しんでおられる。今日も地元の方々とカラオケの勉強にいそしんでいるに違いない。益々のご発展を期待している。 

 
 【追記】お問い合わせ先 :tel fax 047-443-3748 田中重夫

                                                             レポート 千遥