囲碁文化史アラカルト(20)
            杜甫の詩に見る囲碁
                                                   小川 玄吾


 神田の古本屋で、中野謙二さんの「囲碁中国四千年の知恵」を発見、購読した。
氏は新聞社の特派員で北京にいた関係で、北京体験者の囲碁仲間が新宿で碁会を
しているうちに、中国で発祥した囲碁の歴史を改めて調べてみようということになり、
資料収集、テーマ分担、現地検証などをして氏が纏めたのがこの本で、大変興味深く、
改めて中国の囲碁の歴史の歩みを味わい直した次第である。

秦の始皇帝は碁が嫌いで、「禁書抗儒」などもあり、一時囲碁の文化継承が途絶えたとか、
唐代には囲碁が普及したが、庶民の層まで囲碁が広まったのは実は宋代とか。
その他興味ある話は多々あったが、今回は唐代の殆どの詩人が囲碁に親しんだというその
片鱗の紹介の中から、杜甫の漢詩にでてくる囲碁を披露したい。

杜甫が生まれた唐の先天元年(712)は、玄宗皇帝が即位し盛唐といわれる年で、光輝
く経済・文化の爛熟期であった。杜甫は上流家庭の出で、7歳にして漢詩を詠み、後年
李白の「詩仙」に対し「詩聖」と呼ばれるにいたるが、その生涯は逆境に喘ぐ社会的には恵ま
れないものであった。彼自身の放浪と清貧に甘んじる性癖もあったが、安禄山の騒乱に
巻き込まれたり、飢饉に遭遇するなど、外的環境も彼に味方しなかったといえよう。
ここに上げる7言律詩「江村」は安史の乱を避け、ようやく下っ端役人の職を得、成都に落
ち着き家族との生活に安堵の一時を得た48歳の折の作品である。

        江村
 
    清江一曲抱村流    清らかな河が一筋村をかかえて流れている
    長夏江村事事幽    長い夏の日、水辺の村はすべて穏やかだ
    自去自来堂上燕    行っては帰る堂上のつばめ
    相親相近水中鴎    親しみ近づく水中のかもめ
    老妻画紙為棊局    妻は紙に線を書き碁盤を作り
    稚子鼓針作釣鈎    子どもは針をたたいて釣り針をこしらえている
    多病所須唯薬物    病多き身に欲しいのはただ薬草だけ
    微躯此外更何求    この小さな体、これ以上何を求めようか

なんと平和で安らかなたたずまいか。そして貧しいながらも微笑ましく心温まる一家団欒
ではないか。この後杜甫は奥さんと囲碁をどんな石で打ったのであろう。
尚老妻の「老」は敬称の意であるという。

          参考文献:中野謙二「囲碁中国4千年の知恵」 総土社(2002)他