囲碁文化史アラカルト(18)
                          初の碁聖・寛蓮
                                                   小川 玄吾

 日本の囲碁史において、「碁聖」と言われた人物は5人いる。江戸時代の道策(前聖)、
丈和(後聖、後に秀策に代わる)、昭和の碁聖といわれる呉清源と、今回お話する寛蓮である。
はじめ私は寛蓮を「幻の碁聖」と紹介しようと思った。棋譜がないからである。

然し、室町時代の国学者一条兼良編による「花鳥余情」に碁聖・寛蓮の記載がある。
「橘良利は備前国藤津郡大村の人なり。停止院(宇多天皇)の殿上の法師。停止院の法皇山ぶみし給う時、ともしけるよし。碁の上手なるにより、碁聖といえり。
延喜13年(913)5月3日、碁聖勅を奉じて、碁式を作り之を(醍醐帝に)献ず」とある。

菅原道真を寵愛した宇多天皇(在位887〜897)は、権勢を増した藤原氏の策略もあり、31歳にして、幼い敦仁親王(醍醐帝)に譲位。
翌年出家なさり、仏門に仕える身となり、仏道修業の山歩きに赴いた。
宇多上皇に畏敬を抱いていた良利は、自らも剃髪、仁和寺にて出家(昌泰2年:889)して、以後寛蓮十徳と名乗り、宇多上皇の修業にお供した。
帝一行が和泉の国日根に滞在の折、「日根ということを歌に詠め」との仰せに、良利は
   故郷の旅ね(日根)の夢に見えつるはうらみやすらん又ととはねば
と詠い、周りの人々の涙を誘ったという。
(故郷を捨て帰りもせずに旅に出ている不義理の私を、さぞや故郷の人たちは恨んでいるだろうという意)

この後、昌泰の変によって、菅原道真は大宰府に左遷され、醍醐天皇も廃されてしまう。
いよいよ藤原氏が幅を利かせる時代へと進んでいく。藤原道長登場の百年前の出来事である。

13歳の折から醍醐天皇は、囲碁の師である寛蓮の薫陶よろしく、寛蓮に2子の手合いまで登った。
恐らく歴代天皇の中では最強の打ち手といえよう。
この醍醐天皇との間に、金の枕を賭けた物語がある。

ある時帝は金の枕を賭けて寛蓮と一戦遊ばされた。寛蓮勝を収め、金の枕を小脇に喜び勇んで退下した。
ところが、帝が命じた殿上人が強盗に化けて、その枕を奪うに至る。
こうして帝は毎夜金の枕を賭けて対局し、寛蓮は毎夜勝って金の枕を帰り道で奪われる始末。
寛蓮一計を案じ、ある夜木の枕を用意し、殿上人に追いかけられた折にそれを井戸に投じ、井戸の周辺で殿上人が騒いでいるうちに、まんまと金の枕を持ち帰った。
ところでこの金の枕はどうなったかというと、寛蓮はこれで仁和寺の傍に弥勒寺を建立したというが、この寺は現存していない。
遺言して遺骸とともに棺に納めさせたと、坂口安吾は随筆「醍醐の里」で述べてもいる。

源氏物語53帖「見習い」で入水の浮舟を助ける僧都は寛蓮がモデルではないかと思われる。
また「ヒカルの碁」の碁盤の霊、平安の棋士藤原佐為も、寛蓮を彷彿とさせる存在といえよう。

参考文献:林元美「爛柯堂棋話」他