囲碁文化史アラカルト

       囲碁文化史アラカルト(14) 剛腕、12世本因坊 丈和

                                 小川玄吾

☆ 先に紹介した道策の「前聖」に対して丈和は「後聖」と並び称せられた。
  (明治に入り碁聖の名は秀策に取って代わったが)

☆ 丈和の生涯は、天明7年(1787)〜弘化4年(1847)である。  

☆ 本姓葛野、幼名松の助。出身地は伊豆説が有力。本因坊元丈に入門、16歳入段とのこと。

☆  囲碁史上興味深いのは、文政から天保(1820〜1840頃)にかけての、名人碁所の争いである。
   主役は丈和(八段)と井上因碩(幻庵)(七段)であるが、安井仙知(八段)林元美(七段)を含め、
   家元四家の計略策謀を巡る壮絶な張り合いとなった。                
   紆余曲折の結果というかある意味ではすんなりと、結局は丈和が名人碁所となった。

☆  幻庵の策謀は続き、天保6年、老中松平周防守の引退碁会に丈和を引っ張り出すことに成功。
   幻庵は秘蔵っ子赤星因徹(七段)を丈和にぶっつけた。

☆  是が後世「吐血の局」と称せられるようになった一局である。(棋譜参照) 
   時に丈和54歳、因徹26歳。対局は三度打ち掛け四日に及んだ。 
   序盤因徹優勢の碁は徐々に丈和に傾く。246手白丈和の中押勝ちに。   
   因徹はこの2ヶ月後、肺結核のため死去した。

☆ 丈和の棋風は剛腕といわれているが、単なる力碁ではない。
   最高峰にまで達した人の碁は多面的である。気宇壮大な構想力を発揮するかと思えば、
   細心の神経を払って細かい枝葉のことも忘れない。鋭い突っ込みと明るい逃げ切りが同居し、
   盤上を柔軟に縦横に駆け巡る。
   実戦的な手筋を学ぶには丈和の打ち碁を並べるのがよいといわれている。

☆ 丈和が後進に残した訓戒は極めて含蓄に富む。一例を以下に示そう。                    
   地を取らない、石を取らない、深入りしない、石は棄てるべし。               
   地取りや石取りは結果的に達成さるべきで、
   それを欲心から主要目的にしてはならないとの戒めである。

         参考文献:高木祥一 剛腕丈和 (1991)他

棋譜の説明:
吐血の局1835.7.19~.
黒:赤星因徹、白本因坊丈和   120手まで以下略  
上げ浜:13(5,四)、19(4、四)、7(3、五)、86(3、四)、91(4、四)、102(6、二)