囲碁文化史アラカルト     

    囲碁文化史アラカルト(13)本因坊四世 道策

                             小川玄吾

     大陸から伝承された囲碁は、江戸時代に日本で隆盛を極め文化の華を開いた。

     この担い手となった何人かの棋士を紹介しよう。先ず最初は前聖とも実力十三段とも言われた、本因坊四世道策である。

     道策は、正保2年(1645)石見(島根県仁摩町)山崎家の次男として生まれた。           

山崎家は毛利輝元に仕えた武士で、後庄屋となった旧家である。

7歳時母親から囲碁の手ほどきを受け、12−3歳頃本因坊家に弟子入りした。

     お城碁の初出仕は23歳でどちらかというと大器晩成の棋士であった。因みにお城碁の成績は12勝2敗。生涯の対局数は300局余である。

     後世から「実力十三段」といわれた怪物。他の家元の棋士達が2子置いても勝てる保障がないほどの実力者で、すんなりと「名人碁所」に就任した。(在任677〜1702)

棋風は兎に角中盤の読みが素晴らしく神業と称された。「碁神道策」には重厚、華麗、凛凛――とある。

しかしながら、弟子には恵まれず才能ある弟子達はいずれも20歳代で夭折している。

小川道的(22歳)星合八碩(27歳)佐山策元(25歳)熊谷本碩(23歳)等である。

     古碁礼賛という形で、現存する道策の棋譜153局を全て収録、解説した「碁神道策」が日本棋院より出版されているのは周知であろうし、道策の真髄はこれに譲るとして、本文では指導碁の一局を紹介しよう。5子置いて指導を受けたのは雛屋立甫である。              

彼は京都の高名な俳人でプロ三段くらいの打ち手だが、後代の本因坊察元先生「学ばざる碁故如是」と評されたとある。(棋譜参照) 

       参考文献:中山典之 囲碁の世界(1986)他

 
              
(黒52:11;五、黒80:12;五)