小川玄吾

囲碁文化史アラカルト(5)秀吉と太閤碁(2005.10.3)
 

           

     天正11(1583)、秀吉は京都大徳寺で信長の一周忌の法要を営み、その年から大阪城の築城を開始した。そのころからしばしば日海を呼び、囲碁を楽しんだという。

     全述したごとく、日海(算砂)は3天下人に仕え、いずれにも5子置かせたというが、秀吉は信長、家康よりはかなり弱かったようだ。

     秀吉が囲碁に親しみ日海を師匠としたのは、功なり名とげた後のことでいわば晩学である。日吉丸のときから戦国時代を駆け上がった秀吉に囲碁を覚える暇がなかったことは容易に想像できる。

     ところで負けん気の人一倍強い秀吉が、囲碁必勝法を考えないわけがない。桃山城での

  家康らを招いての碁会の折、曾呂利新左衛門が入知恵したのが後世有名な太閤碁である。天元に第一着を打ち後は打った白石の対角線上に黒石を打っていく、いわゆる真似碁である。

     江戸時代林元美「爛柯堂棋話」に、この天元真似碁(太閤碁)に触れた部分がある。「楽しむべき技にあらず」とし、真似碁破りとして天元の黒一団を召し取る図を示している。(棋譜参照)この図は「ヒカルの碁」にも引用され、子供教室に来ていたさほど強くない子が、さらさらと並べビックリしたことがある。

     秀吉と家康が碁を囲んだという碁盤が2面現存している。一つは京都大徳寺龍源院に展示、もう一つは水戸市の徳川博物館所蔵とのこと。

     天正16(1588)、秀吉が主催した御前試合で日海が優勝した折、秀吉は日海に「朱印状」を授け禄を与えた。しばらく後、家康が家元制を敷く先鞭をつけたともいわれ、

  秀吉は近代囲碁文化に少なからず貢献のあったことはいなめない事実である。

      
         参考文献:水口藤雄「囲碁の文化誌」(2001)他