囲碁文化史アラカルト
 
小川玄吾

囲碁文化史アラカルト(4)初代本因坊算砂(2005.8.18)
 

     去る8月9日、高尾紳路第60期本因坊の就位式に参列させていただいた。師匠の藤沢秀行翁も来席され祝辞を述べた。今回は、この機に、算砂についてのべよう。

     算砂は、日本囲碁史に最も貢献した4人のうちの1人として、市ヶ谷日本棋院の囲碁殿堂資料館入り口にも、レリーフが飾られている。

     算砂は、信長、秀吉、家康の三代を教えた。秀吉、家康には5子置かせたという。信長

  には不明。一説に4子とも。

     算砂(法名日海。1559〜1623)は、8歳の時に、寂光寺の開祖日淵の門に入った。囲碁の師匠は、堺の仙也としか分かっていない。

     信長の運命を暗示したといわれる「三劫の碁」は、天正10年(1582)6月1日

信長の御前で鹿塩利賢と打たれた。林元美の「爛柯堂棋話」に棋譜共々掲載されている。然し、今日では、この棋譜は誤り伝えられたものというのが定説である。(下記棋譜参照

     算砂は、家康が囲碁を奨励し、囲碁人を庇護するに当たり、50石5人扶持の他に、家康から終身3百石の支給を受けていた。京都から江戸に出てくる時は、3千貫の旗本格の道中であった。

     算砂は、棋所を任され、碁の一切を取り仕切った。毎年一回のお城碁は、多分二代秀忠の頃から始まったが、算砂は、毎年3月に京都を出、お城碁を済ませ、12月5日に京都に戻った。

     元和の頃、朝鮮から李?史という者が来朝し、算砂に3子で打った。算砂に破れ、日本は碁の国だと感嘆したという。以後外人には3子置かせて打つのが例になった。

            参考文献:榊山潤「武将と囲碁」(1960)他


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