北京編 Part7 ライター千遥
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「忘却とは忘れ去ることなり」という言葉がある。あるときふと、思い出した。なぜ急にそんなことを思い出したのか。それほど遠くない過去のことを、なかなか思い起こせない自分自身に気づいたからである。 この紀行文も暫く書かないでいると、細部のことはまるで思いだせない。気ばかり焦るが、なかなか書かないし、書き始めることが出来ないのである。
まさに、毎日が「忘れ去る」ばかりである。冒頭の言葉は映画「君の名は」からであるとは思っていた。「忘れえずして、忘却を誓う心の哀しさよ」。真知子と春樹は半年ごとに、銀座・数奇屋橋で待ち合わせることにした。かれら二人は決して忘れなかったが、お互いに不都合が起きて会えない事態が続いた。かの二人は「忘れようとしても、忘れられない」。一方こちらは、無意識のうちに何事も忘却の彼方へと消え去っていくのである。
よく考えたら、これは映画でのセリフではなく、NHKラジオで毎回放送した「来宮良子」のナレーションだった、というわけである。だから、老いぼれた頭にも未だに残っているわけか。ちなみに、来宮さんは声優として、恐ろしいほどの洋画の吹き替えや、テレビアニメ、劇場アニメやテレビドラマにも出演しておられる。おそらく読者の中でも、この声に、そしてこのセリフに無関心だった方はおられないと思う。
おっと、前置きが長すぎてしまった。
前回、北京の路上でお喋りした中国人の老人は、「張建中」という名前であることが分かった。さらに、彼は次のような言葉をわたしの手帳に書き残していた。当時はあまり気に留めなかったが、よくよく見ると下記のとおり直筆であった。
「」「」
「私は以前から、貴国の柴田昌造さんとは知り合いなのです。写真も一緒に撮ったことがありますよ。でも、そのあと写真は誰かに盗まれてしまった。もし貴方が(帰国後)彼に会う機会があったら、(柴田さんに)どうぞよろしくお伝え下さい」と書いてある。まず、そんなことはあり得ないはずなのに、けっこう真面目に書いてある。
そのときは、何気なく書いてもらっただけの名前である。しかし、この項を書き始めたら書かれた文字の中にある「柴田昌造」という人は一体どんな方であるのか、突然気になってきた。
気になると、調べねば気持ちがおさまらない。ひょっとして、そんな方にぶち当たるかも知れない。 まず、いつも使うサイトから「柴田昌造」の検索を試みた。しかし、これには引っかからなかった。やっぱりダメか。そんなの当たり前だ。何処の誰かも分からぬ人が検索できたら大変なことだなあ。それでも飽きずにそれではと、淡い期待感で世界最大の検索サイトで調べた。何と柴田昌造さんが見つかったのある
!
柴田さんは、中国地方のある中核都市に本社を置く電子部品会社の重役さんであった。会社の業務内容をみると輸出入が主体であり、中国には北京、上海、山東、香港など、また、韓国やインドなどにも事務所を設けていることが分かった。それにしても広い中国において、何の関係もなく出会った中国の老人との路上の会話から、意外なことが起きるものだと全く驚いた。こんなこと、柴田さんにメールを流したら、先方は私よりもっと、もっとビックリするだろうと思った。
しかし、物好きな人間は何をするか分からない。ついに相手にメールを流してしまったのである。
柴田 昌造 様
前略
始めてお便りいたします。突然メールを差し上げる非礼をお許し下さい。だぶん、貴方様には大変驚かれたこととご拝察申し上げます。
実は昨年夏、北京に一人で遊びに行った際、北京市西方の路上で一休みしていたとき、一人の中国人の老人に会ったのです。わたしも同様に、かなりの老人です......。
片言で話していたら、彼は「張建中」という名前であることが分かりました。そして私の手帳にメッセージを書いたのです。
それは次の通りです。
「私は以前から貴国の柴田昌造先生とは知り合いである。一緒に写真も撮ったことがある。でも、その写真は盗まれてしまった。帰国したら、柴田先生にどうぞよろしく」とのことでした。
あるとき私は何気なく、ふと気になり柴田先生を探し始めました。その結果、貴社の柴田昌造さんであると確信するにいたりました。(中略)もし間違いでありましたら、心よりお詫び申し上げます。
張建中さんは、大変お元気でありました。それをお伝えいたします。
広大な中国のそしてあんな北京の路上でお聞きした方が、この日本で見つかるとは不思議なこともあるものだなあと思いつつ、メールを差し上げることといたしました。(中略)
「世界は、広いようで狭いものなのかなぁ」と一人で納得しているわけです。(中略)
どうぞこれからもお元気で、お仕事がんばってください。
平成20年○月○○日
△△ □□ 拝
陽気なイングランド人 歩道橋からの眺め 補修中の歩道橋 瀟洒な上海料理店
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大きな通りの歩道橋に登り上から見渡すと、かなり遠方まで視界がきく。通勤時間帯を過ぎた道路は車も少なくてガラガラである。これなら気持ちよく走れそうだ。素晴らしい道路や建物、緑の景観は見事だが、歩道橋は今せっせと補修中である。
眼下の緑の木立の中に瀟洒な造りの洋館が1軒ポツリと見える。どうもと書いてあるようだ。見るからに超一流の料理店の風格がある。近くに行って、よくよく眺めたら、ホステス募集中のポスターが貼ってあった。日本の募集広告とは違い、かなり具体的だ。身長は1.65米以上1.70米までと制限されている。小柄な可愛い女性は歓迎しないのか。容貌は?? これは書いてなかった気がするのだが...。
遠方に見えた大きな建物は何か。まずは見てみようと、10分ほどノコノコと歩いて行った。それは中国中央テレビ局(CCTV)である。中国にもいくつものTVチャンネルがあるが、ナンバーワンはCCTVである。日本でいえばNHKを国営化したようなものだから、とにかく番組はお堅いことで有名である。
対外的にも、国内向けにも絶対に失態は許されないテレビという感じだ。政府要人の動向や発言内容に、最も重点をおいているようだ。政府首脳の洪水地帯への視察などは、いち早く詳細に報道する。
日本に長く住んでいる中国人の方は「中国のテレビは面白くない」、と言われることが多い。さもありなんと思うが、日本のテレビ局も反省する余地はたくさんありそうに思う。テレビ局の構内に入ろうと思い、
近くで出入りする人たちを眺めていた。すると、入り口では皆が警備員に身分証明書の提示を要求されている。当たり前だが「こりゃあ、アカン。無理だ」、とあきらめた。こんな立派な建物の付近では、顔を泥や
煤で真っ黒にした民工(農村からの出稼ぎ)が懸命に働いている。見慣れた光景だが、いつも矛盾を感じる。
元に戻る途中で珍しく欧米人に出会った。夫婦でリュックを背負ったハイキングの姿である。でも、これが彼らの旅行スタイルと思った。ちょっと道端で休憩して、いまから出かけようというところであった。若い旦那の方がわたしに捕まってしまった。彼は中国語はまったく話すことは出来ない。それではと、むかし習った英語でいくことにした。
「いつ中国へ来たの」「何処の国の人ですか」などと話しかけると、結構通じる。そんなの中学生でも出来るからなあ。彼はイングランドから来た、とのことだった。わたしの英語も訛りがない標準語??だから、しっかりと話すことが出来た。
しかし奥さんはもう「出立」の準備が出来ており、彼をせきたてる。どうも奥さんの尻に敷かれている模様だ。可哀想だから、早々と彼を解放することにした。名前も何も聞いていないから、「記念の写真だけ撮らせて」と頼んだら、快く応じてくれた。こうして、陽気なイングランドの若者とは別れを告げることとなった。
毛沢東主席 記念堂
これでは見られない毛沢東の遺体 中国の要人になりそこねた
下の2枚はマウスを触れると写真が変わります
この日、目標とした中国国家主席などが立ち並ぶ天安門の指定席に立っことは止めた。また、毛沢東の遺体の安置された毛主席記念堂に、入ることも見ることもできなかった。何しろ準備不足のため、大勢の中国人民がわんさと押しかけるこれらの施設に、並ぶ時間はなかった。
しかし、いずれの施設も一般人民に開放されており、時間さえ余裕をとれば見学することはできる。天安門の上から演説することはできないが、天安門城楼から中華人民共和国の成立を宣言した往時の毛沢東や周恩来、そして現代の胡錦涛主席や温家宝首相の気分は満喫できそうである。
まあ、つぎの機会に覚悟を決めて見学することとし、本日は帰ることにした。
天安門からは再び(バス)に乗り、天遠団地を目指した。団地内の超市(スーパー)でビールを10缶ほど買って戻ったら、Mさんは既にだいぶ前に帰宅しており、わたしが何処をうろついていたのか、心配しておられた。そのための携帯電話だったが、日頃使い慣れぬために忘れていたというわけである。
この日でMさん宅での宿泊は終わる。しばしの休憩をとったあとに、夕食に出かけることとした。Mさんは、「宮廷料理」にしたという。ややしばらくタクシーに乗り、その近辺で降りる。明らかに繁華街ではなかった。薄暗い路地のようなところを歩き、やっとそれらしき店に辿りついた。そこまでの道のりで広告らしきものは一つもない。いわゆる飲食街ではない。これで商売になるのかなぁ。
そんなことはお構いなしで、店に入る。ここまでくると、なぜか宮廷の雰囲気がある。そこいら辺の店とはまるで違う雰囲気が漂う。店には、お客は一組もなかった気がする。
そうか。個室だったから、そのへんは分からなかったのだ。内装にも食卓にも宮廷とはこんなものだったか、と思わせるものがある。食事を運ぶ女性の衣装やその物腰にも、往時を偲ばせるものが見受けられる。普通の中国料理店のように、一度にたくさんの料理は並ばない。オーダーするごとに運ばれてくる。まぁ慌てずにゆっくりいただける、というものであった。
少しばかり経つと、スナック惠雪のチーママ (蘇州の蘇)が現れた。そうか、「一緒にスナックに行こうとMさんが呼んでいたのか」。ここからは料理の選択は彼女にお任せした。こうして、二度とこないであろう「北京宮」での豪華な食事を満喫し、充分に堪能させてもらった。
美味しい料理のあとは、可愛いお嬢さんの待つ惠雪へと向うことになる。 (つづく)
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