撮影者 : 川越市在住 池野谷 鯉太郎さん 今回は川越市在住、池野谷鯉太郎さんに久しぶりの登場をお願いしました。 ご存知カメ友3人衆のお一人であります。去る8月6日から8日まで、青森を訪れたとの由。 もちろん狙いは「青森ねぶた祭り」。プロ顔負けの、その迫力ある写真をお楽しみ下さい。 まだまだ猛暑日の毎日です。皆様にとって、一服の清涼剤となれば幸せです。 平成22度知事賞の作品(ねぶた) < 青森ねぶた祭が2日夜、開幕 > 大型ねぶた15台、子供ねぶた・担ぎねぶた16台が出陣。 東日本大震災からの復興を願い、元気を発信しよ うと 乱舞するハネトと囃子(はやし )、ねぶたの競演に、沿道を埋めた 39万人 (まつり本部発表)の観客が 沸いた。 以前、青森ねぶた祭りの起源としてよく知られていたのは のちに征夷大将軍となる坂上田村麻呂が陸奥国の蝦夷征討 (三十八 年戦争・第3期)の戦場において敵を油断させておびき寄せるために 大 燈籠・笛・太鼓ではやし立てたことを由来とするものである。 このため 、青森ねぶた祭りの最優秀団体に与 えられる賞として1962年に 「田村麿賞」が制定された(現在では「ねぶ た大賞」と名称変更されている。 しかし田村麻呂が現在の青森県の地で征討活動をしたとは考えられず、 ねぶたの起源とされたものも田村麻呂伝説の1つと見られる。 現在では、日本全国にある土着の七夕祭りや 眠り流しの行事(禊祓い)が 変化したものと考えるのが主流である。 今の東北三大奇祭のねぶた(根蓋)の起こりであるとされている。 つ まり「根」(死)の国へ追いやるための土かぶせの「蓋」ということである。 踏んづける恰好をする踊りに田村麻呂の山車を担ぎ踊る様は、 そ の時のエピソードを表現しているとされている。 ただし、八切止夫の語源解釈は歴史学・国語学の方面では学術的意義を認められていない。 また、「飢饉や疫病の蔓延で大量に餓死し、病死した者を十分な弔いも せずにまとめて土葬した暗い時代があった。そんな被葬者たちの怨念の 復活を恐れた人々は、 根の国に蓋をする鎮魂の儀式として、 「ラッセ ー」(「来世(らいせ)」)と 唱えているもので、野辺の送りを原形として自然発生した村祭りであろう。」 とする言説もあるが、確証はない。 ただ、各地の盆祭りや、針供養、筆供養、人形供養など様々な供養 と同様にその供養する心が起源となっているものであろうことは容易に推定できる。 それでは、ゆっくりとご鑑賞下さい。
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