上海・南京で最大のハプニング!!!
ライター 千遥
上海の人気スポット外灘(ワイタン)と近代的な町並み
これは、2001年12月22日から翌年の1月7日まで上海の大学に短期留学したものの一部を抜粋したものである。
日中友好協会中国語教室の優秀な受講生と一緒の筈が、その受講生が止むを得ざる事情により行けぬことになったため、おっちゃんが僅か1か月しか勉強していない30代の若者を連れていく羽目になってしまった。
大学での授業は午前中だけだ。そんなことで、午後は皆それぞれ近隣への観光と相成る。1週間もたたない土曜日に蘇州と杭州への一泊二日で出かけることとなった。会話も怪しげなふたりだが、何とかなるさ、と出かけることとした。
上海駅改札口の上には、まじかに発車するいくつかの列車の便名や終着駅と共に発車時間が表示されている。これは日本と全く変わらない。よく見ると中国語に続いて日本語でも案内されている。珍しい光景だ。
<待合室の案内板>
〜これなら、日本人でも分ります〜
慣れぬ日本人が、遠距離旅行で間違えて乗らぬようにとの配慮がなされている。日本との違いは、ホームと列車の乗り口との高低差が結構あることだ。どうして、こんなに列車の乗り口が高いのだろう
?ホームは昔のままで、列車だけ大型化したのだろうか。この件については、現在でも未確認のままである。
まだまだ、バリアフリーというところまで到っていないのかもしれない。それと、駅のホームがやたらに長い。不思議なことに、照明がとても少ないのでホームはずいぶんと暗い。実は、これが今回の上海短期語学留学最大ハプニングの起きる大きな原因となったのである。
<上海駅プラットホーム>
我々が乗る車両のところまで行くと、女性駅員が乗降口で乗車券を確認しながら乗客を一人ずつチェックしている。快速の座席は2人ずつの向かい合わせで4人掛けだ。列車は滑るようになめらかに発車した。乗り心地は快適だ。
中国語による社内アナウンスもはっきりと聞こえてくる。中国語も英語と同じで「レディーズ・アンド・ジェントルマン(女士メーン、先生メーン)」というように女性から始まる。列車の加速に合わせるかのよう
に、社内に心地よい音楽がテンポよく流れてきた。快速列車にふさわしい爽やかな曲だ。中国もなかなかやるものだなあ、と思った。ところがよく聞いたことがある曲なのに、情けないことにすぐにその名前が想い浮かんでこないのだ。曲にあわせて口の中でモゾモゾとなぞっていたら、やっと思い出したのがロシア民謡の「トロイカ」だった。
向かいの座席には30代前半と思われる小柄な男性がいる。このまま黙っていても仕方ない。ボソボソと話し掛けてみた。すると、相手はニッコリ笑って我々の期待に応えてくれた。彼は日本商品の中国でのエイジェンシーをしているのだという。カバンから取り出したパンフレットをみると、新潟にある半導体メーカーだった。しかし相手は日本語をまったく話せない。それに加え、私の断片的な中国語では上手くコミュニケートできない。
そんなときは、昔覚えた英語が役に立つ。私の相棒は隣で寝たふりをしている。列車は上海の郊外を快調に走りぬけていく。そして会話にもやっと慣れてきた頃、速度をおとして停まった。ところが外は全くの暗闇だ。窓には何も見えない。駅ならば何か標識があるだろうと思っていた。近眼の目を窓ガラスにつけ凝らして、よく周辺を眺めてみる。何か少し灯りが見えるようだ。が、ぼんやりと文字らしいものが見えるものの、何と書いてあるのかよく分らない。
アナウンスはしていたのかな、うっかり聞き逃してしまったのかなあ。中国の生活にも慣れてきたのが誤りを招く。何と何と、そこが本日の宿泊地・蘇州(スーチョー)だったのである。
やっと気づき、慌ててバッグを抱えて出ようとしたが、もう間に合わない。列車は既に発車している。「あーぁ参ったなあ」と思ったが、もうどうにもならない。それにしても快速の停車駅なのに、駅の構内は真っ暗なのだ。どうしてなの? Why?
日本の駅なら、どこでも照明が眩しいほどついているというのに。そんな我々の気持ちとはうらはらに、列車は次の停車駅である南京西駅に向かってドンドン速度をあげていく。終点の南京西駅まで
2時間もかかるのだ。
この先どうなるのかな?こうなったら覚悟を決めるしかないか。じっくり前の若者と相談することにした。
<蘇州・南京6時間を楽しむ>
南京まで来てしまったのなら、そこで一泊しても良さそうなものだが、蘇州のホテルに予約してあるからそうもいかない。乗り越しのトラブルを解決し、車掌を説得できた要因には一つのメモの存在が大きかった。
朋友の石川氏が我々に渡してくれた蘇州への列車時刻表には、12月28日上海発17時03分で、蘇州着が18時44分と書いてある。ところが実際の到着時間は17時47分であった。
私たちはこのメモをすっかり信じ込んでしまったために悠長にかまえていた、というわけだ。このメモを元に同席の若者に経緯を説明し、彼はそれを間違いなく車掌に伝えてくれたわけである。
その彼とは、南京駅の駅ホームで堅い握手を交わし別れを告げた。本当に有難う。名前を聞かなかったのが惜しまれたが、どうかこの若者に幸多かれと祈った。
蘇州の寒山寺にて筆者 こんな可愛い同級生もいた
私は、在職中によく酔っ払って乗り越してしまうことが多かった。終点まで眠りこけ、帰りの電車できたところを駅員に見つかって往復の料金を請求され、ひと悶着起こしたことが何度もある。
大体は駅長を呼んでこちらの言い分をとおしたものである。ここ中国でそのようなことが起きなかったのは実についていたというほか無い。
駅員に連れられて上海方面に向かう列車に乗る。ここでも、乗客の切符を一人ひとりチェックしているのは変わらない。だが、無事乗り込んだものの既に車内は人でいっぱいだ。
どうしたものかとウロウロ、キョロキョロしていたところに、「日本人の方?」との声がかかったのだ。嬉しかったなあ!本当に。エッと振り向くと眼鏡がよく似合うなかなか綺麗な女性がいた。
「大丈夫よ、一緒に来て」という。それで女性の後について通路に溢れた乗客をかき分け、かき分けして食堂車までたどり着いた。
食堂車には4人掛けのテーブルが両サイドにいくつか置いてあり、あまり人もいない。日本ならこんな時、食堂車は満席になってしまうのに不思議なものだった。
まあ、お蔭様でゆったりと蘇州まで、麗しき人と2時間の旅を楽しむ?ことが出来た。災い転じて福となる。起こりうるから奇跡という言葉がある。まさにそのとおりの事がおきたのだ。
お世話になった女性は日本人ではなく、南京に住む中国人だった。この人は流暢な日本語に加えて姿形が殆ど日本人と変わらないためか、見ただけでは分らないのも当然だ。
スカートを巧みに着用し服装も一般の中国の方たちとは違う。良家の若奥さんという感じ。つくば市に住むご主人のところへ戻るとのお話だった。
ご主人の仕事先は、「旭ガラスだけど、下請けの仕事よ」とか「住まいは茨城県の神栖町で、日本に戻ったら子どもを保育園に預けてパートで働かなくては」などと言われる。でも、「がんばって日本で戸建ての家を持ちたい」との前向きなお話には感動した。
南京の朋友夫婦が上海まで一緒で、一泊して日本に向かうそうだ。 日本語ぺらぺらの彼女に私は自分がなぜ中国にきたか、上海の印象はとてもよい、等と中国語を用いて話してみた。どうせなら何でも話してみるのが得策との考えが背景にある。
「第一次去年3月fen 我去北京。第二次来了上海。(最初は昨年3月、北京に行った。今度は上海にきた)」と言ったら「あら、中国語お上手ね」という。そんなの、ちょっと話していたら直ぐにバレてしまう。でも、お世辞でもとりあえずは嬉しいものだ。
3月は、3月というだけでよいのだが、3月fenと「fen」をつけたのに効き目があったようだ。その方が話し言葉としては良いらしい。「fenなんてよく知っておられるのね」という。実のところ、これは2年ほど前に丸暗記しただけに過ぎないものだけど。
どこの国でも、子どもはかわいい。お母さんは、ふざけて車内を走り回る男児をしきりに日本語で注意する。
お母さんからは中国の栗を頂いた。袋ごと頂いたのでちょっと貰って残りをお返ししたら、全部あげるとのことで結局二人で食べてしまった。
私たちには差し上げるものがなくて本当に困った。無料で楽々と腰掛けていたのではすまない。服務員に食事を頼んだら定食は一品しかなかった。それでも助かる。これは20元(260円)だった。
蘇州で皆さんとお別れすることになった。またまた名前を聞くのを忘れてしまった。おそらく二度と会えぬ姓名不明の麗人、「南京の人よ、さようなら」。日本でがんばってね!
(C・W)
留学生は、おおよそこんな感じだった
真冬でも外で卓を囲む人たち こちらは家族お揃いの記念撮影だ
寒山寺で行動を共にした人民解放軍兵士
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